「偏向」posted 2017
 サーフィンの本は、忘れた頃にもう一度引っ張り出して、新しい本と交互に読み進めると面白い。その時代ごとにエピックと言える1冊がある。
ピックアップしたのはこの本。今を含む、それぞれが時代を代表する
サーフィン誌の一部だ。
 しかし、本を作る側も、書く側も、読む側も、そして写真家までも、それぞれに「偏向」といえる思想めいたものが混在し、ジャーナリズムさえその「偏向」に左右される。
それがサーフィン誌という、そのものの、世界でもあるが、
三島由紀夫の言うあの時代の「偏向」と大きな差はない。
そこを理解し打開ないと、サーフィン誌はまるでつまらないものとなる。

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1968/7/三島由紀夫インタビューより
読売新聞と東京新聞は、それぞれ林房雄さん、林健太郎さんが文壇時評をやっておられるからいろいろ親切に採り上げてくださる。
見ようによっては親切すぎるわけですね。
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ところが朝日、毎日は一行も取扱わなかった。黙殺です。
朝日は長洲一二さんがやっていますが一行もとりあげないし、毎日は社内記者がやっていますが、やはり一行もふれない。
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そうすると、一つの現象があって、この目鼻立ちがいいか悪いかわかりませんが、そこに人間がいることは確かなんですね。それを黙殺するということは、たぶんに意識的だ。
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意識的な態度にちがいないと思うのは、あるいは私のウヌボレかも知れません。その辺が、こっちがウヌボレで、つまり偏向だという場合と、それから実際に偏向である場合の区別がつけにくいんですね。これは実にむずかしい。
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私がそんなことをいうと、「あの野郎はつまらんものを書きやがって、ウヌボレやがって、とり上げられないのは当たり前だ」ということになる。
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じゃ第三者から見た場合はどうかというと、その第三者の中に右も左もいる。いいという奴と、黙殺するのが当然という奴がいるかもしれない。第三者だって公平とはいえない。言論の偏向ということは実にむずかしい。
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*今2020/1現在、手にしたいサーフィン誌は”Surfer’s Journal”以外になくなりました。時代の流れは著しく早いですね。